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【チェーホフ|桜の園】不協和音という喜劇

完全に趣味の記事です。(今でこそよくインド行く人みたいに思われがちですが、学生時代にはロシア文学なるものを専攻していたということをご承知おきください。)

東京ノーヴイ・レパートリーシアターの公演を観てきました。

チェーホフの戯曲「桜の園」を能楽堂で演るという試みで、演出家アニシーモフさんの悲願だったんだとか。

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100%ジャパンな松の前でチェーホフ桜の園というシュールさ

始まってすぐ、まず面白いって思ったのが、客席側の照明が明るいままだったこと。舞台上のどこかにスポットが当たってることもないです。桜を思わせるような小道具も大道具もない。能楽堂の舞台そのままをフルに使いきる。

 

お能の舞台というのは、緞帳で仕切ったココからコッチがドラマが繰り広げられる場所ですっていうのではなく、その舞台空間自体が【あの世とこの世の間】と言われますよね。だから、お能のそういう世界観をすごく意識してたと思う。ちょっと幽霊みたいのとか出てくるし、フィールス爺やは終始亡霊みたいにぶつぶつ言いながらウロウロしてるし。

 

楽隊も劇団の役者さんたちが務めていて、これもかなり重要な役割を担っています。謎の楽器(ずっと調べてるんですが、どこのなんという楽器なのか不明・・・)がメインで使われているんだけど、いやぁこれがまた、黒板を爪でひっかいたみたいなというのか、金属擦り合わせたような音で。

 

すごく不快な音…(´・ω・`)

 

で、それがまたこの物語の全体を包む不吉な予感とか、不協和音みたいな感じにうまくマッチしていると思ったわけです。

 

そうそうちなみこの戯曲は喜劇なんですよね、チェーホフ的には。チェーホフのユーモアのセンスはちょっと分かり切らないところもあるんだけど。チャップリンについて語っている時に萩本欽ちゃんが、「本人が真剣にやればやるほど見てる方は笑っちゃうものなんだよね」みたいなことを言っていて、そういう種類の喜劇なんだと思う。

 

そういえば、わざわざ欽ちゃんの話を引き合いに出さなくても、チャップリン本人のこんな名言がありましたやん。

人生は寄って見ると悲劇、引きで見ると喜劇(byチャップリン

 

だから没落していく貴族の悲哀を描いた悲劇っていうわけじゃない。この登場人物たちの織りなす不協和音にその可笑しさがある気がする。原作だともう少し複雑に織りなす人間関係を、今回の舞台ではかなり端折って表現していたけど、それでも腹いっぱいってくらい一人一人のキャラが立つ(笑)!

 

で、そのキャラ立ちする一人一人がそれぞれの思いを一生懸命小難しいセリフに吐露するのはいいのだけど、

「なんかさぁ、、、噛み合ってないよね、この会話。クスッ(;^ω^)」

っていう感じ。

 

一般的な舞台のように、観客が舞台上で繰り広げられるドラマに取り込まれて架空世界に感情移入していくのではなく、何となく人間観察をしてるんですよね。で、ふと、まあ人生なんてこんなもんかもねえ、なんてことを思い、自分の人生を顧みる・・・、その時に、老いぼれフィールス爺やにこう言われるワケですよ。

一生が過ぎてしまった・・・。

ひとつの命も生きなかった・・・。

(↑確かこういう台詞だった気がするけど記憶が定かじゃない。青空文庫では「一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。」ってなってました。)

 

ちなみにこの「引きで見る」って、「俯瞰する」という瞑想では大事な要素でもあります。。。超・無理やり、瞑想の話にこじつけてみた(笑)

 

予定調和じゃないから面白いじゃない。(´_ゝ`)

深刻になってる自分、ちょっと笑える。( *´艸`)

 

と笑うことが出来ると生きるのはいくらか楽になります。もちろん、あんまり自嘲的になるのはどうかとも思うけど。

 

役者さんたち、能楽師の身体の使い方など専門の指導を受けたようですね。足腰どうやって使ってるんだろ?ってかなり興味があるところですが、いかんせんホンモノのお能を1回しか見たことないので、語れるレベルじゃない・・・。

 

 

桜の園
桜の園
posted with amazlet at 18.05.27
(2012-10-04)