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yoga kutir 凪

ヨーガクティールなぎ

【図説ヨーガ・スートラ】Ⅱ-3

いやぁ、ヨーガスートラってやつは、やっぱり何度読み返しても新たに発見!と思う部分があり、面白いです。書籍へのリンクはそのたびに再掲になりますが、「おお、この経文そういうことか!」って思った部分を気が向いたときアップします。

 

図説 ヨーガ・スートラ
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伊藤 武
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さて、私はボケ~っとした子供だったので(今もだけど)、いわゆる「物心ついたころ」というのは8歳あたりからようやく、という感じでした。で、物心つくって、このヨーガスートラⅡ-3で述べられているところの、「我ありという想い(我想)」が生じるってことかな、なんてことを思いました。

 

Klesah(クレーシャ・煩悩)

五つの煩悩は、無明・我ありという想い・欲望・憎悪・生への妄執

 

ヨーガスートラ第二章は、クリヤーヨーガとアシュターンガヨーガを行ずることによって、煩悩を弱め、三昧を追及しましょうという実践編。じゃあ、煩悩って何なのかというと、上述の5つですよ、と。

ちなみに煩悩の根本とされる「貪瞋痴」の三毒は、この後ろの三つ=欲望・憎悪・生への妄執に対応するそうです。

 

で、8歳から10歳あたりだったと思う。明らかに、人に気に入られているかどうかを意識するようになった。それまでも、好感や嫌悪感を抱く、あるいは人のそれを感じとることはあったはずなのだけど、何かこう、もっとあっけらかんとしたものだった。例えば派手に兄弟げんかしてぎゃん泣きしてたのに、数時間後には一緒に遊んでる、とか。十分に怒りをぶつけて、過ぎてしまえばあっけらかん。

 

つまり、Sukha(楽)とDuhkha(苦)みたいなものはもちろんあったわけだけど、それがRaga(欲望)やDvesa(憎悪)とタッグを組むようになったのは、小学3~4年生のころだったように感じるのです。このあたりから徐々に「不快・嫌悪」に対するみんなの態度が陰険なものになり始めた気がする。仲間外れとか。

 

だから、自分は誰かに嫌われることがありうる、いや既に嫌われているかもしれないんだ、ということをハッキリ意識した。こうなってくると、トムとジェリーみたいに仲良く喧嘩しな♪とはいかなくなる。

 

さて、これらの煩悩の母体となるのが、「無明(アヴィディヤー)」なわけです。

-無明(アヴィディヤー)はたんに「知恵がない」や「薄ら馬鹿」といった程度の意味の語ではない。

 

おっとそうだったのか、と改めて気づきました。文字通り「智(ヴィディヤー)」に「否定(ア)」が付いたもの、正に「薄ら馬鹿」くらいの意味だと捉えていましたわ…。

 

-「大暗黒力」とでもいうべき圧倒的な負のパワー(シャクティ)が「無明(アヴィディヤー)」なのだ。

 

それは後に続く四つの煩悩を産み、育む田地である。この力は弱まることはあっても、その種子が根絶されることはないらしい。こわ~い。

 

そんな魔物のパワーをうまくスルーしながら、のらりくらりと生きていきたいと思うのであります。